◆地名のルーツをたずねて・・・2◆


参考文献:「市原郡誌」復刻版 千秋社 1989年発行


■菊間

成務天皇(在位131〜190?)は全国を国・縣(県)・邑(村)・里に分け、国郡に国造(くにのみやつこ)、縣邑に稻置(いなぎ)という行政機関を置きました。菊間にも国造が置かれ、「菓麻(くくま)」国造と称していました。「久久萬(くくま)」とも書いたようです。江戸・元禄の頃には「菊間」と記録されています。古代の日本語では、「菊」を「久久」と表記していたこと、また「菓」と「菊」が間違いやすい字形であることから、日本語の変遷と共に表記が変わっていったのでしょう。

■島野

歴史は古く、12代景行天皇(在位71〜130?年)のころ、皇子ヤマトタケルノミコトの東征以前から「島穴」という地名があったとされ、このときミコトが風神・志那都比古命(しなつひこのみこと)を祀ったのが島穴神社のおこりです。また「和名抄」に「海上郡島穴縣馬野村島穴の郷」と記されています。後に「島野」と改められました。これは「あな」がなまって「の」に変じたと言う説、あるいは「島穴」と「馬野」の二村を合わせ間の二文字を略したと言う説があります。

■飯沼

古代には「稻庭」、中世には「入沼」と呼ばれていたのが現在の「飯沼」だとされています。地名の成立は奈良時代、45代聖武天皇(在位724〜749)より前。ちなみに地元の方言では、さらに縮めて「いるま」と発音されているようです。

■潤井戸

現在の潤井戸地区の南部、帝京平成大学の敷地近くに水神谷という字名が残っています。かつてここにこんこんと湧き出る澄んだ泉があり、その水は四方の田畑と人々を潤して、どんなにひどい日照り旱魃の時にも枯れることがなかったといいます。この泉にちなんで「潤井戸」という地名が生まれました。
水神を祀ったほこらは朽ちてなくなってしまいましたが、明治に入って泉のほとりに碑が立てられました。碑文に「源泉湧混々。南山碍崕谷間。玄冥布作厥徳。
隻渠流不殫。永潤潤井戸。民生頼以安。」
とあります。

■五所金杉

天明年間(1781〜1789)の中ごろ、江戸金杉村の人・荘左衛門と坂本村の人・又兵衛らが五所村西方部の海辺を開拓し塩田をひらきました。天明4年には両者の功績を称え、ここは金杉濱新田と名づけられました。後に金杉は五所村と合併します。
この地域は養老川によって構成された三角州にあって、当時は砂地の上に雑草がはびこり、所有主すらはっきりしていない荒地だったといいます。遠く江戸から移り住み、製塩業を起こした荘左衛門・又兵衛の勇気と苦労は計り知れないものだったでしょう。

■米原

現在の大通寺にはかつて寺領に百坪余りの水田があったと伝えられています。
この水田の米は普通の日本の米より粒が2倍ほど長く、朝鮮半島または東南アジアから伝わった品種、あるいは古代米の一種と考えられています。この水田にちなんで「米原」という村名がうまれました。
米作りを広めたのは大通寺二代禅師梵那仙人という不思議な人物で、ひとり山の窟に住んで田を耕しました。推測の域を出ませんが、梵那仙人は日本に渡来した大陸の知識人、あるいはその子孫だったのかもしれません。残念ながらこの米は嘉永5(1852)年に大干ばつで失われてしまいました。

■八幡

古くは「石塚」と称し、集落の中心は村田川に近く今の千葉市浜野と同じ江田郷にありました。孝徳天皇(在位645〜654)のとき大化の改新が起こり、律令制に基づいて上総国府が市原郷に置かれ、それに伴い付近に神社仏閣の創設が相次ぎました。飯香岡八幡宮もこのときに創設された神社です。
八幡宮を中心に村は栄え、江田郷の一部だった石塚村は市原郷に移り、村名も「八幡」と改称されたのでした。もとの石塚村は古屋敷という字名で呼ばれました。


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