◆地名のルーツをたずねて・・・


前回の特集とはうって変わって、市原のむかしを訪ねる特集です。
あなたは自分の住む土地の名前の由来を知っていますか?
そこには歴史のドラマが隠されているのかもしれません。
身近な地名の中から、知られざるその由来の一部をご紹介しましょう。
参考文献:「市原郡誌」復刻版 千秋社 1989年発行


■姉崎

「あねがさき」の名は、神々の物語に由来します。
志那戸辨命(しなとべのみこと)・志那都比古命(しなつひこのみこと)の姉弟神が
この地で待ち合わせをした所、姉神の志那戸辨命が先にやってきたという伝説から
「姉前」の地名が生まれました。(姉崎神社の伝承では、この二神は夫婦神とされています)明治になってから、海岸線が内海に突き出した岬のようであるため「姉崎」と改称されたと云われています。

■君塚

平安時代末期の治承4(1180)年、相模国(今の神奈川)石橋山の合戦で平氏に敗れた源頼朝はわずか7騎の家臣と共に小舟で海を渡り朝山(今津朝山)の浜へ逃れました。翌日、武松郷武の塚という里に到着した頼朝は千葉常胤(つねたね)の元へ使者を送り援助を求めます。常胤は、東国武士の大将である頼朝の窮地を知ると一族二百騎を従えて千葉郡からはせ参じました。おおいに喜んだ頼朝はこの地を新たに「喜見塚」と名づけ、後に「君塚」となったのです。また武の塚に祀られていたヤマトタケルノミコトの社に頼朝が源氏の白旗を納めたのが白旗神社の名のおこりです。

■五井

創置の時代ははっきりしていません。君塚と同じ武松郷の字名で、古くは「御井・後井・五位」などの文字が混用されていました。
のち「五井」に統一され、五井村村誌に「天正18(1590)年8月1日徳川家康公、関東を領するに及び、同9月1日御家人の知行となる、同年松平家信五井五千石を賜る」と記述が残っています。江戸と安房を結ぶ海運・陸運の交通の要所として昔から栄えていました。

■出津

五井村村誌によると、天明年間(1781〜1789)の初め、養老川の水源に大雨が降り川のはんらんによってそれまであった川筋が大きく流れを変えました。削り取られた田畑の土が河口に堆積して大きな洲が出来上がりました。
のちにこの洲に人が移り住み「出津」と呼ばれるようになったということです。

■廿五里(ついへいじ)

地元の人でなければ、まず読めないこの地名。
古くは「露乾地(つゆひぢ)」「津井比地(ついひぢ)」と呼ばれていたといいます。
「廿五」は「二十五」の古字、「里」は日本の距離の単位です。この文字が当てられた由来は、源頼朝がこの地にあった東泉寺を厚く敬い、毎月焼香を行うために使者を送り、このとき鎌倉からこの寺までの道程が二十五里であった、そこで古い地名をこの文字にあてたと伝えられています。ただし伝承の上ではこうなっていますが実際の鎌倉―廿五里間は二十五里(約100km)ではありません。

■平蔵

伝承によると土橋平蔵という豪族が、平将門が反乱を起こした承平年間(931〜938)に紀州(今の和歌山)からこの地へ来たと伝えられています(史実としては誤りだとされていますが・・・)。平蔵城の城主は代々土橋平蔵を名乗っていました。現在も城山跡が残っています。土橋平蔵将経は、城の守護のため、鬼門に当たる城の東北の方角に西願寺を建立しました。この寺の阿弥陀堂(平蔵の光堂)は国の重要文化財に指定されています。

■白塚

天正18(1590)年、椎津城の守りにあたった北条方・白幡六郎が豊臣方・里見氏の軍に攻められて戦死したのち、その亡骸を葬ったところを「白塚」と呼ぶようになりました。柏原地区には六郎が乗った馬を葬った「馬塚」もあったと伝えられていますが現存していません。

■鶴舞

中世の名は「桐木台」。明治元年、遠州濱松(今の静岡県浜松)藩主井上正直
(のち鶴舞県知事)は領地をこの地に移封させられて領民と共に移住し藩邸を設けました。正直は桐木台を「鶴の舞うたる慶祥の地」という意味をこめ「鶴舞」と名づけたといいます。一説には藩邸に近い谷に鶴舞谷という名所がありそこから名をとったともいわれています。



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